ナタル陥落
ナタル・バジルール。
外交員として諸外国を飛び回るキャリアウーマンの彼女は仕事以外でも固い態度は変わらない。
私生活の乱れは全てを乱すと考えるからである。
今彼女は仕事以上の緊張状態にあった。
その元凶はナタルの腕の中ですやすや安らかな寝息をたてている。
何故こんなことになったのか。
ナタルは会社の上司で現在育児の為休職中のマリューの家を訪ねていた。
引き継いでいた仕事で意見を伺いたかったからである。
「突然お邪魔して申し訳ありません。ラミアス専務」
「構わないのよ。ここは会社ではないのだからもっと力を抜いて」
それに私はもうラミアスではないのだけどね、とウインクするマリューに
ナタルは顔を赤らめながらそうでした、と返す。
マリュー専務は同じ職場のフラガ部長と電撃結婚した上に噂では『できちゃった結婚』というやつらしい。
計画性のない二人にナタルは反発を感じずにはいられない。
彼女の腕には丸々した物体が張り付いていた。
ナタルがそれに目を向けるとマリューはとても幸せそうに微笑んだ。
「キラ、というの。少し人見知りが激しくてね。全く…こうしてナタルが来てくれたのに」
ほほを寄せて「ほらナタルお姉さんに挨拶しなさい」と言うマリューは優しい母親の顔をしていた。
キラは恐る恐るといった感じでナタルを窺い見た。
大きくくもりのない紫色の瞳が現れナタルは不覚にも見惚れてしまった。
キラはナタルと目が合うと恥ずかしそうに慌ててマリューの胸に顔を埋めた。
母親に似たあま色の髪に天使の輪が出来ていて綺麗な子供だと正直に感動した。
キラを抱えたままのマリューと話を進めている内にキラはそのまま眠ってしまった。
そのうち、夕立が降り始めマリューは慌てた。
洗濯物を取り込もうとする彼女を手伝おうと席を立つとナタルは眠っているキラを押し付けられた。
「この子、起きた時に誰かいないと大泣きするから!」
と言うなりバタバタとマリューは二階へ上がっていった。
そしてリビングには呆然とするナタルと幸せな夢の中の子供が残された。
ようはマリューが洗濯物を取り込むまで預かればいいのだと割り切ることにした。
小さく柔らかな体からは太陽の臭いがする。
こんなに小さいのに確かに息づく生命。
抱き潰したいと思ってしまったのは残酷な気持からではない。
自分にも母性本能があったのかと驚いた。
しかし暫くすると腕が疲れてきた。
これを抱き続けていたマリューが凄い。
そっとソファに寝かせようとするとキラはビクリとして目をさました。
途端にウルウルしだす瞳にナタルは焦った。
いくら目を醒ました時に誰かいないと、
とはいえ一時間程前に知り合ったナタルでは意味がないのではないか?!
「うぅ…」
「ま、待ちたまえ!少年!」
とても子供に話し掛ける喋り方ではない。
しかしキラはいつもかけられるのとは違う口調に目を丸くして涙も止まった。
「君の母上は今手が放せないんだ。寂しいだろうが我慢しろ」
「あー?」言葉は分かっていないようだが、思いは通じたのか、キラは泣く気配はない。
ホッとしてソファに座らせると、腰が落ち着かずキラはコロンと転がった。
「…」
一瞬躊躇った後ナタルは膝にキラを座らせた。
キラはきょとんとしながらもおとなしく収まった。
「ナータ。ナータ」
「ん?…もしかして私の名前を言ってるのか?」
ナタルを指差してキラはしきりにその単語をつむぐ。
「ナータ」
「ナタル。私の名前はナタルだ」
キラの小さな掌がナタルの頬に当たった。
人に触れられるのをあまり好まないナタルもこのきめこまかな肌の感触にはまいってしまう。
「るぅ〜」
「ナ・タ・ル」
「ナタルぅ」
少し抜けた呼び方だがキラは確かにナタルの名を覚えた。
パパ、ママ以外で人の名前を覚えたのは初めてだということは後から聞いた。
「賢い子供だ」
キラの小さな頭を撫でながらここへ来て始めてナタルは笑顔を見せた。
それにキラも無垢な笑顔を返した。
思えばこれがとどめだったかもしれない。
それからナタルは外国へ出張する度にキラへのおみやげを沢山抱えてやってくるようになるのである。
「バジルール君が来たんだって?」
「ええ。仕事のことでね」
残業でキラが寝る前に帰宅出来なかったムウはスーツも脱がずキラが眠るベッドに近付いた。
柔らかな頬を撫でると涙の痕に気付く。
「あー彼女あまり子供好きそうにないからなあ。キラ泣いただろ?」
「ふふ。逆よ。キラったらナタルになついちゃってね。
ナタルが帰ろうとするとナタルの服を掴んで泣きじゃくったのよ」
「へえー意外だな」
『泣かないでいい子にしていたらまた来る。約束だ』
そうキラにいい聞かせて指切りをしていたナタルの柔らかな顔をムウにも見せてやりたかった。
*おまけ*
「ただいま〜キラーv」
最近お決まりとなった台詞を吐きながらムウは帰宅してきた。
「寝ているから静かにしてちょうだい」
それにマリューは冷たくたしなめた。
子供にだけただいまを言う夫に対する嫉妬が混じっているのをムウは知っている。
嫉妬する妻を見たいという確信犯である。
「ただいま、マリュー」
即座に笑顔で近付いて妻の額にキスを落とすと、
マリューは溜め息をつきながらもそれをおとなしく受け入れる。
「おかえりなさい、ムウ」
結婚して良かったと実感するのがこういう時だとムウはしみじみ思う。
帰る家、迎えてくれる家族。
厳格な父にそこそこ名家で育ったムウにはこの小さくとも温かい家庭に憧れていた。
そして手に入れた家族はずっとずっと尊い。
美人の奥さんに可愛い可愛い息子、きっと自分は世界で一番の幸せを手に入れたに違いない。
「しかしキラ、寝るの早くないか?」
「アニメを見てたんだけどほらそこで…」
マリューが指差したソファへ回ってムウは雷に打たれたような衝撃を感じた。
「か…可愛いっ!!」
ソファには大きくもこもこしたパンダのぬいぐるみの上に愛しい息子が天使の寝顔を見せていた。
ぬいぐるみより小さなキラはまるでパンダの子供のようだ。
「ナタルが中国に行ったお土産に買ってきてくれたの。キラはずっとそんななのよ」
くすくす笑ってそう説明するマリューの言葉を聞いているのかいないのか、
ムウは携帯のカメラで撮りまくっていた。
一時間程のナタルの姿と同じであることはマリューしか知らない。
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