13 




当たり前のものが当たり前でなくなる瞬間は突然で怖い。
忘れたわけではない。
体は…この指はきちんと覚えている。
鍵盤の位置も目を閉じていたって分かるのだ。
ただいつもと何かが違う。
奏でる音がニコル自身に響いてこない。
そんな音楽が他人に響くはずがない。


スランプだ。
文化祭まであと5日。
今までにも何度かあったことだが、よりによってこんな時に…と余計に焦りが募る。
何とか弾く事は出来るが、流石にラクスは騙せなかった。

「今日はここまでに致しましょう」

そういうラクスの顔は怒ってはいなかったが…失望しているはずだ。


帰宅して使いなれたピアノの前に座って鍵盤をぼんやり見つめた。
均一に並ぶ白と黒も今は調和を乱すニコルを拒絶しているように見える。
癖のある前髪をくしゃりとかき乱し重い溜め息を吐いた。
「少し休んではどう?」
見かねて優しく声を掛ける母に緩く微笑んだ。
「あともうちょっとだけ」母は困ったように眉を落とし、無理はしないでねと言って部屋を出た。
こんな時は味方である人にも見放された気になるから辛い。




「ニコル?」
「え…?あ、はい。何ですかアスラン」
話を聞き逃していたニコルは慌てて聞きなおすと、アスランは秀麗な顔を僅かに曇らせた。
集中力が欠けすぎる自分を叱咤する。
(アスランにこんな顔をさせてしまうなんて)
「この書類を練習の時にラクスに渡して欲しいんだ」
「はい、分かりました」
少しぎこちなく書類の入った封筒を受け取った。

「…ニコル」
「はい」
まだ何かあるのかとアスランを見ると、深いエメラルドの瞳に吸い込まれる。
「いや…何でもない」
すれ違い様、励ますようにポンと軽く頭を撫でていった。

アスランは無器用だ。
何か言いたそうな顔をしていたくせに。
頑張れ、とか無理するな、とか…ニコルを縛る言葉はけして言わない。
しかし彼に触れられた箇所から温かい想いが伝わる。

「ありがとうございます」

もうアスランの後ろ姿もない廊下でポツリと声を漏らした。










ゆらゆらと風のブランコに乗って舞い降りるイチョウの葉。
時折くるくると回りながら遊ぶその姿は秋を実感させてくれる。
ラクス嬢の学園は四季を大切にした造りになっている。
春の桜はこのプラントの花見の名所としても有名だ。
正門の並木道を歩くのは新入生の憧れの一つだとか。
今はもう身を潜めていた秋が顔を出していた。
何日も前からそうであったに違いない。
ただニコルに秋の気配を感じ取る余裕がなかっただけ。

(僕もまだまだですね…)

グルリと周囲を見渡すと見知った姿があった。
彼の人は一本のイチョウの木を熱心に見つめていてニコルが声をかけるまで気付かなかった。
「キラさん?」
「…うん……」
「…?」
返事はしたもののニコルだとは認識していないようだ。
何をそんなに見つめているのかと視線を辿る。
その先にはかわいい銀杏があった。

「美味しそうだよね」

ボソリと呟かれたキラの言葉にニコルは一瞬絶句し、次の瞬間盛大に吹き出してしまった。
それにようやくキラはニコルを認め顔を紅葉のように真っ赤に染めた。
「ニ、ニコル君だったの!?てっきりカガリかと…」
キラは頬の熱を掌に移すように顔を両手で包み込む。
恥ずかしさからか菫の瞳は甘い輝きを放っていた。
その可愛らしさに顔が緩むのを止められなかった。
キラはまだ笑われていると思い、だって秋は食べ物が美味しそうなんだもんと頬を膨らませてプイと横を向いた。
ひらりとイチョウの葉が一枚、キラの頭に止まった。
そっと葉を摘み採ってやり、柄をクルクル回す。
拗ねていたキラもニコルの仕草に気を取られた。

「焼くと美味しいですね」
「うん!あと茶碗蒸しに入れたのも好き」
「ああ、いいですね」

ニコルが同意するとキラは今までの事は忘れてとても嬉しそうに笑う。
「今日は何時もより早いね」
「あ…はい。先に少し練習させてもらおうかと思って」
ニコルが僅かに眉を曇らすとキラも心配そうな顔になった。
ラクスからニコルの調子が悪いと聞いているのかも知れない。
気まずくなってキラの目を見ることが出来ず反らしてしまった。
せっかくの雰囲気を台無しにしてしまった。
それじゃあと、無理矢理笑って去ろうとした。
クイと右手をキラに掴まれ握っていたイチョウの葉がはらりと落ちた。
「キラさん…?」


「デート…しない?」


キラの両手に包まれた右手が火傷したように熱かった。








手を引かれるままキラに付いていく。
ピアノの事が気になったがニコルよりもやや小さく柔らかな手を無下に振りほどくことなどできるはずもない。
困ったな、と思いながらも高まる鼓動は抑えられなかった。

校舎裏まで行くと一気に秋の匂いが濃くなった。
真っ赤に染まった紅葉が控え目に揺れる。
一歩踏み出す毎に落ち葉がかさり、かさりと音を立てた。
端にひっそりと佇む四阿に座らされる。
「綺麗でしょ?僕の大好きな場所なんだ」
「はい…」
見惚れたままのニコルにキラは満足したようだ。
ちょっと待っててね、と言ってキラは何処かへ行ってしまった。




紅…

緑の葉がこんなに見事なアカに変わるなんて、本当に不思議だ。
アントシアニンという色素がどうとか学んだが、こうして見るとまるで人間の血を吸ったようだと思う。

美しいのに怖い。

ブルッと肩が震えた。




ああ…そうか。
恐れているのだ。
自分の音を。

ラクスの美しい歌声を汚してしまうピアノの音を。


そして、それに対する人々の失望を。


『臆病者』
真っ先にある先輩の言葉が浮かんだ。
彼は人の本質を見抜く事に長けている。
表現があからさますぎて衝突も多いが彼が純粋で正直な証拠であって短所ではない。

初めて言われた時はムッとしたが、すぐに彼の言っている意味が分かった。
ニコルと付き合いのある同級生や先輩には顔に似合わずきついと言われることは多いがその逆を言うのは彼くらいだろう。
だが、ニコルは肝心な時に人の顔色を伺って決断を渋る自分にも気付いていた。
気付いていたけど気付きたくなくて。
本当は弱い自分を知られたくなくて必死で虚勢を張っていたに過ぎない。

悔しい

悔しい…






そっと温かな風に撫でられた気がして瞳を開ける。
寝惚けていたのか、それまで自分が目を閉じていたことに気付いた。
脳に焼き付いた緋の幻影に惑わされていたのか。


「まいりましたね…現実と夢の区別がつかないなんて…」
「綺麗な夢だったんだね」


「いえ……え?」



声の主を探して目だけ動かすとキラを捕えた。
アメジストを埋め込んだような美しい瞳がいつもより深みを増して違う色に写る。
秋風に遊ばれて流れる栗色の髪は日に透けて胡桃色をしていた。
思いがけない距離にキラの顔があることに急速に体が熱を帯びていく。
しかし次の瞬間視界がおかしい事に青ざめた。
キラの背景に紅葉の紅と薄く青い空がよく映えていて…あろうことかニコルはキラに膝枕されていたのである。
頭の後ろに柔らかな太股の感触をはっきりと意識した。
キラは完全に目を醒ましたニコルに無邪気な微笑みを見せる。

「舟を漕いでて危なかったから」



「すみません!!」
紅葉に負けないくらい真っ赤になって頭を下げるニコルをキラはただおかしそうに笑うだけだった。







キラが水筒に入れて持ってきたホットココアのおかげで少し落ち着いたが、ニコルはキラを正視できないでいた。
頭からキラの身体の感触が離れないのだ。
別に女性に免疫がないわけではないが、キラはラクスと違った意味でニコルを落ち着かなくさせるようだ。

しかしキラは気にしたふうもなく、ただ黙って風に揺れる紅い葉を眺めていた。

沈黙がニコルの頭を冷やしていく。
キラはまるでニコルから話出すのを待っているかのようで…



「情けないですよね。
こんな時にスランプだなんて。自分の音が出せないんです。
弾き方は覚えているのに音が違う…
今まで奏でていた音も本当は自分の音じゃなかったんだなって思うと僕には何も残らない気がして…」

弱音を吐くなんて僕らしくない。
こんな弱い男はキラに呆れられる。
キラに見放されるのは嫌だ。
また急に怖くなって、冗談で流そうとニコルが口を開く前にキラが静かな声で応えた。


「…心に置いてかれたみたいだね」

「?どういう意味ですか」
「もっとうまく弾きたい、まだうまく弾けるはずだ…心が先に成長したみたいな感じかな。
だから今まで弾いていた音では満足できないんじゃないのかな」
「…」

急に秋の音が消えたようだった。


「もっともっと上手くなりたいっていう強い想いは素敵。
苦しいかもしれないけど…もっと上手くなれる可能性があるってことだよね」

「…そんな風に考えたことありませんでした。
キラさんは素敵な人ですね」
「素敵なのはニコル君だよ」
即答するキラの言葉がくすぐったい。


キラはうん、と身体を伸ばしながら立ち上がった。
「そろそろラクスにニコル君を返さなきゃ。
今頃やきもち焼いてるよ」
腕時計を見ると約束の時間を少し過ぎていた。
「キラさん。ありがとうございます。
ラクスは僕に手を焼いていたのでしょうね」

「さあ…?ラクスは何も言わないから」

「…え?ラクスから聞かれたのではないのですか。
僕の調子が良くないって」

「ううん。ラクスは何も言わない。
ラクスはニコル君を信じているんだよ」



僕が憧れている人たちは本当に素敵な人だと実感した。
彼らに見捨てられていない僕はまだ大丈夫だ。


でも元気がない、というくらい教えてくれても良いよねというキラの愚痴に苦笑しながら、 茜に染まった校舎へ向かった。












それから必死に音を追いかけた。
先を行く心が満足する音を。
もう迷いはない。


文化祭当日のコンサートは満員御礼。
席に座れない人も結構いるようだ。
喫茶店の責任者に抜擢されて聴けないかもしれないと嘆いていたキラも壁際に立っている姿が見えた。
キラの両隣をフラガとピンクと赤の薔薇を持ったクルーゼがガードするように立っていた。

ピアノと向かい合うニコルの視界に入る場所だ。
キラは喫茶店のイメージでもある『不思議の国のアリス』の格好をしたままだった。
ニコルもリハーサルでキラの喫茶店へは赴けなかった為、そのままの格好で駆けつけてくれたのが嬉しかった。
もちろん可愛いキラの姿を自分だけ見られないという悔しさもあったのだが。

演奏が始まる直前、ニコルがふっと微笑んだのをクルーゼは見逃さなかった。



いつも同じ歌が歌えるわけではない人間と違って、いつでも均一の音を提供できる「道具」として産まれた楽器。
しかし操る者も人間ならばいつでも同じ音を奏でられるわけではない。
ただこの瞬間、最高の音をと思いニコルはピアノを弾く。
ラクスの歌声を壊さないように、美しさを更に引き出すように…そう聴き取ってくれれば良い。



演奏が終わると今までで一番大きな拍手を貰った。
中央席に座っていたアスランも珍しく起きていたようで立ち上がって拍手してくれていた。
あとでからかってやろうか、などと考えているとラクスにそっと袖を引かれた。

壇上にクルーゼが持ってきていた花束を持ったキラが上がってきた。
「クルーゼ先生からなんだけど…」
そう言ってキラは少し弱ったような顔をしていた。
ラクスにピンクの薔薇を、ニコルに赤い薔薇を手渡される。

「二人とも本当に素晴らしかったよ!」

薔薇も霞むようなキラの笑顔に嬉しさがこみ上げてきた。
これくらいのご褒美は頂いてもいいですよね、とキラの頬に軽くキスを贈ると射すような視線をいくつも感じた。












「大人しい顔してやること大胆な奴だね〜」
「ふむ。ニコルはLily of the Valleyが合うかと思ったが…」
「あ?谷間のユリ??…鈴蘭だったか?」
「臆病者という意味だ」
あいつが臆病?!信じられないという顔をするフラガにクルーゼは
貴様は人を見る目がないからな、と皮肉な笑みを返した。
フラガはムッとしながらもふと思い至ったように壇上に立つニコルを見つめながら言った。

「あぁ…でもそうだな。
あいつって他人の心に敏感で自分の心に鈍感だったりするからな。
臆病ってそういうことだろ」

一人で納得した風なフラガに、やはり貴様は面白いとクルーゼは笑った。





「そうだな。今のニコルなら……グラジオラス」






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