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今日はついてなかった。
昨夜遅くまで鳥のロボットを作るのに熱中していたために少し寝坊し、いつもより遅く家を出た。
車は通勤ラッシュに巻き込まれて一向に進まず、仕方なく電車に乗り換えたのだ。
人の多い場所は嫌いなのだが、遅刻するよりマシ。
でないとしつこく突っかかってくる先輩がいるのだ。
『ザラ家の坊ちゃんが時間にルーズでどうする』
こうなじってくるのが想像されてソッと溜息をつく。
やや押され気味になりながらもつり革を確保し、周りを遮断するように本を広げた。
端正な顔立ちゆえに、自然人の目を集めていることを自覚している。
羨望であろうと妬みであろうと鬱陶しいことこの上ないので、こういう場ではさっさと自分の世界に籠もってしまう。
しばらくすると右肩に何かが当たり、視線だけ巡らせる。
柔らかそうな栗色の頭が乗っており、かすかな寝息が聞こえた。
制服を見れば隣のお嬢様学校のものだった。
(珍しいな…)
金持ちの女子が通う学校なだけに車登校が多く、こんな公共機関を使う者など稀に違いなく
…それはアスランの通う男子校とて同じことなのだが。
何となく興味が湧いてそのまま観察していると、
女の子は目を覚まして、少々舌っ足らずに「すみません」と呟いて頭を戻した。
その横顔に心ごと持って行かれた気がした。
白く滑らかな肌、長い睫毛、僅かに細められたスミレ色の瞳…歳はニコルくらいか、もっと幼い印象を受けた。
華奢な身体と清楚な空気に保護欲をかき立てられる。
思わず凝視してしまったが、彼女はまだ寝惚けているようでその不躾な視線に気付かず外を見ていた。
少々寂しさを感じながら、鼓動を抑えるために視線を本に戻した。
目は本の文字を辿るだけで頭を通り抜けていく。
接している右半身に全神経が集中していた。
柔らかな温かみにもっと触れたいという欲求に慌てた。
(俺は変態か?!)
悶々と悩んでいて彼女が一瞬身体を強張らせたことに気づけなかった。
ようやく冷静さを取り戻すと彼女がビクリと震えたことに気づいた。
不審に思って視線をずらすと、不自然な位置に手が蠢いていた。
途端怒りが沸き上がる。
厚かましい男に対してなのか、何も言わない彼女に対してなのか…気付いてやれなかった自分にか。
多分最後が正解に最も近い。
あまりの情けなさに溜息をつく。
そして本を閉じると、こちらに気付いた彼女が見上げてきた。
泣きそうな…いや、もううっすらと涙を溜めていた瞳に安心させるように微笑んだ。
うまく笑えたか自信はないが。
思い切り男の腕を掴み上げると男はしらを切る。
その見苦しさに不快を笑顔で示すと彼女までが怯えた顔をした…そんなぁ。
青ざめた男は力一杯抵抗し、危うく彼女に当たろうとしたので咄嗟に腕を解いて彼女を引き寄せて庇った。
華奢な身体を抱き留めることになり、落ち着けかけた鼓動が暴走し出した。
男を逃したことは残念だが、ちょっと役得。
ー彼女は着痩せするタイプらしい。
逃走する男を目で追うと少し行った所でつまずいたようだった。
短く悲鳴が聞こえた気がした。
誰かが取り押さえたのかと思っていると、よく知った声が届いた。
「アスランー。捕まえておきましたよ」
一つ年下の後輩はよく気が利く。
自分に気付いて一連の行動を目にしていたらしい。
そして、聞こえた悲鳴は…何をしたのだろう。
「ニコル…いたのか」
その声にハッとしたらしく、彼女は離れてしまった。
俯いたまま早口に礼を述べられ、「大丈夫?」と声をかけようとしたら逃げるように降りていった。
人前で恥ずかしい思いをさせたのだと思って、自己嫌悪に陥った。
人が降りて空いたのでニコルが近寄って来る。
「あいつ、今の駅で車掌に渡しておきましたから」
「あぁ…」
「あの子に触るなんて良い度胸してますね」
「あぁ…って、お前彼女が誰か知っているのか?」
「いいえ。けど、1週間前から電車にすごく可愛い子が乗っていると噂でしたからね。今日は様子見に」
意外にミーハーな奴である。
「アスランこそ、今日は珍しいじゃないですか」
「今日は渋滞に巻き込まれてー」
とりとめのないことを話しながら、思考は彼女のことでいっぱいだった。
ー明日も電車に乗ってみようか。
しかし、流石に警戒したらしく、彼女はその電車には乗ってこなくなった。
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